第1回さいとう・たかを賞 最終選考会議録

SAITO TAKAO AWARD 2018

2017年11月13日、記念すべき第1回さいとう・たかを賞の最終選考会が小学館にて行われました。
ここでは、「この議論を、次世代のコミック作家や業界を担う人に聞かせたい」というさいとう・たかをの想いのもと、選考委員の許可を得て、最終選考会での議論の様子を特別公開いたします。

脚本、作画、プロデュース…コミックを“分業”で作るということ

やまさき十三氏(以下、やまさき):
年長ということで、司会の大役を仰せつかりました。力及ばないところはお助けください。
本日は、最終候補に残った3作品に対して、みなさんでフェアな評価を、そして、さいとう先生という稀有なエンタテインメント作家の名を冠する作品賞にふさわしい選考ができればと思っています。よろしくお願いします。
ではまず、選考全体に対してのご感想をおひとりずつお願いします。

池上遼一氏(以下、池上):
もちろんそれなりのプロの人たちの作品ですから、甲乙つけがたい、難しいなと思いながら評価をさせていただきました。
制作の進め方として、絵描きさんと脚本家と担当編集者との3人でがっちり組んで進めるやり方をしているという例を見て、なるほどなと思いましたね。僕は脚本つきの作品を多く手がけてきましたけど、文章で書かれていない部分を自分なりに想像し、補ってコマ運びをしていくやり方でやってきたので。そのあたりの違いも、作品ごとの個性に影響していそうですね。特に『EX-ARM』は、作画家の感性で自由にデフォルメされたり、強調されたりという部分がかなりあるのかなと感じました。

佐藤優氏(以下、佐藤):
私はコミックの選考に従事するのは初めてなので、すごく緊張しながら臨みました。
先に簡単にそれぞれの感想を言うと、まず『EX-ARM』は、私には少し難しかった。だけど…私は今大学で教鞭をとっているんですが、直感的に、いまの学生たちだったら、この作品を支持するだろうと思いました。僕らみたいな古い世代には、プロットがないように見えることが気になっちゃうんだけど、逆にそこが脱構築的であり、小さな差異で進めていく、ポストモダン的なやり方で作っている。池上先生がおっしゃったような、膨らんだイマジネーションが画に投影されている感じも含めて、これはひとつの面白い表現だと思うんです。
『蛍火の灯る頃に』と『アブラカダブラ』は少し似たジャンルだと思いますが、『蛍火~』のほうは、箸休めが全然なくて、シリアスな部分だけで組み立てられている。これは我々、小説やノンフィクションを読んでいる人間にはなじみがある方法です。しかし、ずっと読み続けていくと、もしかしたらちょっと疲れちゃうかな、とも思いました。

『アブラカダブラ』は、脚本家が、直近の聖書学や脳科学のかなり難しい専門書を読んで、その知識を落とし込んでいる。そこに全然妥協がないんですね。他方、理屈っぽくならないように注意しているというところで、やっぱりすごく完成度が高いなと。
ただ、池上先生のご指摘でわかったんですけど、制作体制ということを考えたときに、『アブラカダブラ』は少し、シナリオの人が表に出すぎているのかもしれない。
そういうことも踏まえて、みなさんのご意見を聞く間にもう一回、自分の中で再構成したいと思います。

相賀昌宏氏(以下、相賀):
私は、実を言うと『EX-ARM』は大好きで、ずっと読んでいたんです。ほかの2作品は読んだことがなかったんですが…今回読んで、『アブラカダブラ』にびっくりして。キャラクターも絵も非常に魅力的で、脚本とのコラボレーションという意味では、私はこの作品が一番じゃないかなと思いました。
『蛍火~』は、もう少し先が見たいかな、という感じです。決して悪いイメージではない。
ただ、最終候補というだけあってレベルが高くて、私にとってはどの作品も良かったです。

やまさき:
僕は、心意気としては第1回さいとう・たかを賞の最終候補にふさわしい作品がそろったなと感じています。個人的な嗜好で言いますと、『アブラカダブラ』は作品としての完成度が高く、深さもある。『EX-ARM』はエンタテインメントとして非常に面白い。『蛍火の灯る頃に』に関しては、制約がない、「なんでもあり」すぎる世界観が気になるかな…というところで。ここから、どういうふうに絞っていこうかなと思っています。

さいとう・たかを(以下、さいとう):
みなさん、本日はありがとうございます。
私はとにかく、「面白いか面白くないか」、それだけで評価をさせてもらいました。それぞれ見るべきところはあるんですが、『アブラカダブラ』は一番、よくまとまっているかなと思いましたね。脚本の長崎くんはもともと編集者だったから、絵もドラマも見る目がある。うまいこと組み合わせる力があるなということを、つくづく感じました。
ただ、制作工程の話でいうと、本来は「脚本」と「作画」の間に「構成」という立場があるはずなんです。映画でいうところの監督ですね。それを、現在のところは大体、脚本家か作画家のどちらかが担う形になっている。この作品の場合も、おもに長崎くんがそれをしているのかと思うんですが。
この「脚本」「作画」「構成」、それを束ねる「プロデュース」、こういう分業体制で作品を作っていったほうが本来は完成度の高いものができるはずで、なかなか難しいとは思いますが、そういう体制が確立されていくのを期待しているんです。今回、この賞を設けた意義もそういうところにある。

佐藤:
重要な話だと思います。というのは、私自身『憂国のラスプーチン』の「原作」を担当したとき、頭の中にあるものをそのまま書けばいいと思っていたら、何度も何度もダメ出しされて(笑)。結局、長崎尚志さんが脚本を書いてくださって、私がそれに筆を入れる形で、原作・脚本・作画の3段階になったんです。つまり、ストーリーが別にあるとしても、それを脚本化してネームに入れ込んでいくっていうのは全然別の能力なんですよね。

池上:
制作体制ということでは、僕は脚本第一主義の人間です。コミックの「絵」は小説における「文体」みたいなもので、技巧的なことよりも、脚本の思想なり哲学を表現できているかが重要だと思っています。脚本がしっかりしていないと、どんなに絵をうまく描いても人気はついてこない。裏を返せば、内面の深い描写があまりできない新人の絵描きでも、脚本なり構成なり、演出の力で読ませる作品にしていくこともできるということだと思いますが。

さいとう:
それをコーディネートする立場がプロデューサー、つまり編集者です。
「脚本」「構成」「作画」「プロデュース」、本来はすべて別物だということを、整理していきたい。
そういう言葉の問題でもうひとつ言っておきたいのは、コミックの脚本のことを「原作」と呼ぶ慣習も、本当はなくしていきたいんです。「原作」というのは完成した物語を別の形で表現する、発表するときに使う言葉として、すでにあるわけですから。単純に、言葉としてまぎらわしいでしょう。
私がやらせてもらっている作品だと、たとえば『鬼平犯科帳』は完全に「原作」のあるものですが、『ゴルゴ13』には「原作」はないわけです。だから私は「脚本」という呼び方をしている。

佐藤:
たしかに、そういう場合は「脚本」がいいですよね。実態に近いわけですからね。

さいとう:
「原作」という呼び方だと、そこにオリジナリティーがあって、作画家との力関係が対等でないように見えるでしょう。これは、整理しておかないといけない点だと思います。

やまさき:
ひとつの問題提起ということで、議論していくべき課題かもしれませんね。
ただ、現在はすでに、コミックの脚本のことを「原作」と呼ぶことがかなり定着していている面がありますよね。そこをこれから訂正していくのは、すごくケアが必要なところではないかなという気がします。

さいとう:
業界の人間がどう考え、どう処理していくかという問題ですからね。